コラム

「現在のような」動物園は無くてもいいというのが、私の考えです。

「現在のような」と但し書きを付けています。なぜ「現在のような」動物園なのでしょうか。しかもそれは、多くの皆さんが考えているような「今ある日本の」動物園(たぶん、私たち動物園のスタッフも同じように考えている動物園)。

多くの動物園は、動物に対する思いやりを欠いています。「見たい」と思うのは観客(あるいは私たちかも知れませんが)で「隠れたい」と思うのは動物です。現在ある動物園は、「見せる」ことに終始しています。見えなければ「見せろ」、「金戻せ」という観客がいるのも事実です。探して見てもらうという手法を取っている動物園はほとんどありません。

隠れている動物を探して見てもらうためには何が必要なのでしょうか。それが「教育」なのです。見えているものが「教育」ではなくて、見えないもの、あるいは見えにくいものを探して見つけるのが「教育」です。そのような意味からいうと動物園は「教育」を行っていないと言えるかも知れません。

見つけるための努力。それは観客以上に動物園側に求められるものです。動物園の中の動物は犠牲者ではありません。野生の世界からの大使というのであるならば、そのような取扱いが必要です。それらの動物は、自然界の性格を失わずに持っています(例えその動物が、動物園生まれで、野生の生活を知らなくても)。

この野生の性格が発露できるかどうか。これが「福祉」です。野生下の生活の中では多くの選択が必要で、それが生きていく術でもあります。逃げる。追う。食べる。群れる。遊ぶ。番う。子どもを産む。育てる。野生下では数多くのストレスを受けています。そのストレスに対する対応能力が進化という現象に繋がっています。いわば、ストレスの回避が多様な進化形態を生んだとも言えます。

そのような多様な進化結果が動物園で見えるというのが、動物園の本来ある姿だと思っています。野生下の動物の多様な生活様式を動物園で再現するのは極めて困難です。だからといって投げ捨ててしまっていいものではありません。例え、肉食動物が草食動物を捕獲するということを見てもらうのは無理にしても、例えそうでも、何らかの方法はあるはずで、それにはフィールドで研究をしている人々の力を借りなくてはなりません。食べ物一つ例にとっても同じことです。「福祉」とは、彼ら野生動物が本来持っている行動の再現に外なりません。

野生下の動物たちの行動や食性が再現できること(十分な福祉)。それが動物園の目指す究極の目標です。そこから、見えてくる野生の世界と、その世界を取り巻く環境を、その、今あなたがいる動物園で感じ取ることができるのが未来の動物園のあり方です。

研究者と共同でつくられた動物園(果たしてそれは「現在のような」動物園という姿を呈しているかどうかは関係なく)は、地球の生き物と共存する私たちの未来の姿を想像するものでなくてはなりません。また未来に対する警鐘は誰かがしなくてはなりません。その適役はやはり野生の動物だろうと思うのは私だけでしょうか。

以前、沖縄でシンポジウムを開催した時、会の代表の小菅氏と一緒に沖縄市の市長に呼ばれて行ったことがあります。普天間基地の返還に揺れる沖縄。その跡地の400haは?私たちの答はこれ。「ゾウが20頭いるゾウの保全施設」。これは単なる一例かもしれませんが、例え1種しかいなくてもアジアに貢献できる立派な動物園です。


岩野俊郎