動物園の未来
日本に動物園らしきものができ、既に100年を超える。どの国の動物園の始まりは「見世物小屋」だった。人は珍しいものを見ようとし、またそれを手に入れようともする。目新しいものを獲得した人々はそれを見せることで生業が成立した。純粋な科学的見地から獲得したものであったとして、その「物」を見たい人がいる限り商品となる。たとえそれが「人」であっても同じことだった。
見せるという行為は見たい人があって成立する。少なくともこの何百年間は自然界であれ何であり「見たい人」が「見たい物」を求めていた時代とも言える。しかしそれはごく一部を除き「娯楽」あるいは「リクレーション」という単なる好奇心を寄せるものでしかなかった。
この数百年で地球環境は悪化の道をたどり、取り返しのつかないところまで来たとも言われている。地球環境を知ることは絶滅に瀕している動物を現地に行って見ることではない。「娯楽」に代わる「知る」という行為や行動が必要な時代になった。
では動物園はその「知る」という行為にふさわしい場だろうか。少なくとも日本には見当たらないと思われる。その原因は公立(都立、県立、市立など)という組織形態にあると言える。都や県、市は地方税の範囲内で動物園を運営する。そのため活動範囲が限定され、都民、県民、市民など自治体を構成する人々(以下市民とする)に還元することが求められ、他地域(例えば、アフリカやアジアなど)の人々や動物、自然に利益供与することは必要外のこととされる。そのため、動物園に生活する動物の出自の地に対する貢献は考えられない。というよりも現在の自治体は資金的余裕がなく、動物園の改修すらできず、海外への貢献など考えることもなく、海外貢献は国の仕事であると放置される。
しかし、市民は見たことのない動物を欲しがり、市はその市民には応えようとする。何故なら、それは「市長の票」であるから。市長が特に動物(特に野生動物)に造詣が深いとは思われない。「動物園はレジャー産業である」と言い切った首長もいる。そのような動物園は「知識」を提供できないだろう。
市は市民の「知」に対する興味を満たすべきである。それができなければ最近特に言われるようになった「動物の福祉」をかなえることができない。
この20年、世界の動物園は「動物の福祉」をいかに満足させるかに力を注いできた。アメリカや欧州ではゾウを飼育しないという園まで現れた。ゾウを飼育できる園がゾウを飼育すればいいのだという考え方である。複数頭のゾウ(10頭とも言われる)、広大な敷地、安全な管理などそのような要件を満たす動物園がゾウを飼育する権利を有する。それと共に野生下の動物の知識と保全を結びつけることが必要であろう。先進の国々は大学と共同し野生動物の調査のみならず現地住民の保健指導まで行っている。
「動物の福祉」は「人の福祉」でもある。
このように考えると、公立の動物園をこの先も維持することがいかに困難なのかということが分かるだろう。動物園は国家事業で「見世物」ではなく「野生動物の研究施設」でなくてはならない。そのよう動物園は世界にもないかも知れないが、それこそが日本が求めなくてはならない「動物園」の未来像なのである。
岩野 俊郎(いわの としろう、1948年 - )
獣医師・福岡県北九州市にある動物園「到津の森公園」の前園長。山口県下関市出身。
1972年、日本獣医畜産大学獣医学科卒業。翌年、西日本鉄道株式会社到津遊園に就職。1997年、園長に就任。2000年、同園の閉園に伴い西鉄を退社。2002年、園の経営を引き継いだ「到津の森公園」初代園長となる。2022年、同園園長を退任。「到津の森公園名誉園長」の称号を授与される。